コラム「私の故郷」
2023/09/29
非営利活動法人 設備システム研究会
サブコンのA
私の故郷は岩手県釜石市です。
生まれてから高校までを釜石市で過ごしました。山形県での大学生活を経て、その後東京で就職したため、故郷を離れてからの期間のほうが長くなりました。
コロナ禍の丸二年間は故郷には帰れず、寂しい思いをしました。帰りたくても帰れない時期を経験したためでしょうか、それ以来、一層故郷の事を考えるようになった気がします。
今年のお盆。一年ぶりの帰郷です。台風の影響で近年恒例になっている鮎釣りは出来ませんでしたが、父と旧道のドライブに出かけ、父が手懐けている野生のハクビシンに会ったり、サルのファミリーに出くわしたりと、楽しく穏やかな時間を過ごすことができました。
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大好きなホヤ |
逃げてくニホンザル |
親戚はもう少ないので大きな集まりは無いのですが、今年も無事お盆を執り行うことができました。親友たちとも会うことができたので、天気が悪いなりに充実して過ごせたと思います。
こちらは去年の帰省の時の鮎釣りの様子です。今年もやりたかったのに残念。
今年はずっとこんな景色でした…
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ずっと霧 |
少しの晴れ間 |
この川は小さいころからの遊び場で、夏は川遊び、冬は凍った川でスケートの真似ごとをして遊んだ思い出があります。
釜石市は東日本大震災で大きな被害を受けました。当時入社4年目で現場に配属されていた私は、心配なので実家に帰りたいと会社に懇願しました。家族は、震災の次の日に衛星電話で連絡をくれたので、無事は確認していましたが、居てもたってもいられませんでした。震災1週間後。会社で準備した東北まで支援物資を運ぶ4tユニック車で、岩手県北上市にある定置作業所まで乗せていってもらえることになりました。ユニック車の運転席の後ろのちょっとしたスペースに乗り込み、でこぼこした下道を進む不安と、家族・友人にやっと会えるのだという逸る気持ちを今でも鮮明に思い出すことができます。
実家は釜石でも山の方にあるので津波の被害は無く、私が帰った頃には既に電気・水道は復旧し、ガスだけが寸断されている状態でした。
家族の顔を見た後。私は友人に会いに行くために自転車で出かけました。被害の大きかった海側を見ておこうという気持ちもありました。友人と涙ながらの再会をし、少しほっとした気持ちで海側に行ってみると、そこは瓦礫が散乱し、砂埃と悪臭で目を開けるのもやっとという、ひどい状況でした。車がひっくり返り、片づけに追われる人たち。私は携帯で町の被災状況の写真を撮ろうと思っていましたが、どうしても撮ることができませんでした。
一枚も。それは携帯の写真という手軽な手段で残せるような状況ではありませんでした。こんなことが現実に起こるのかと、私は言葉を失っていました。もちろん今でも、その状況を書き表すことはできません。
震災から12年経ち、釜石市もだいぶ変わりました。新しくなる故郷は、復興していく希望と以前の街が忘れられていく寂しさが混在していて、帰るたびに複雑な思いをします。
私は今でも、大きな地震が起こり、自分がいる場所がグラグラ揺れて倒壊する夢を見ます。それほど心に深く刻まれる出来事を経験したのです、もし今そうなったらどう自分が行動すべきか考えていなければいけないのに、どこか緊張感のない日々を過ごしてしまっています。
現在私は、人々の生活に欠かせない、電気・ガス・水道・下水というインフラ設備に大きく関わる職業に就いています。このコラムを書きながら、非常事態に負けない、非常事態に備える設備を提供する事は、社会への貢献に繋がり、自分の仕事の意義・やりがいになるのだと襟を正しているところです。
来年は天気も良く、元気な父親と鮎釣りができるよう願い、仕事にも前向きに過ごしていきたいと思います。