コラム「けた違い」
2022/10/31
非営利活動法人 設備システム研究会
今野
今年の台風11号は小笠原近辺で発生して、「西」に移動して沖縄のあたりまで行き、「南」に方向を変えてフィリピン方面に行くかと見せて、反転して「東北」に向きを変え、そこからは、よくある台風の経路をたどった。日本全土を表示した範囲の左下から出て、大きな弧を描きながら右上に移動するという先入観があったが、これを大きく裏切る経路だったことに驚きました。
しかし、もっと驚いたことがありました。それは、この変則経路の台風の動きを気象予報で予測できていたことです。テレビの天気予報で沖縄周辺に台風が表示されているときに予測経路が反転しているのを見て、普段テレビに突っ込むことのない自分が、テレビに向かって「えっ」と声を出したのに気づいて自分でもびっくりでした。
50年ほど前(私が10代の頃)の天気予報は中々的中せず、「気象庁では予報官が下駄を飛ばして、その向きで予報している」と皮肉を言われていたような記憶があります。この時代と比べると、異常気象の日常化といえる「ゲリラ豪雨」の予測などの新たな課題は抱えていますが、天気予報の精度や、局所的な予報などは「桁違いの進化」を遂げました。これには、コンピュータによる気象シミュレーションが大きな寄与をしていると思います。
過去には気象庁がスーパーコンピュータを導入するというニュースには、「当たりもしない予報に税金を投入するのは問題だ」という論調の非難もありました。台風進路の予測は、我々の熱気流解析とは異なり、すぐに結果が出て、外れると災害につながるという厳しいものですが、関係者の努力が形になり我々も恩恵にあずかっています。気象庁は、「よく当たる下駄」を手に入れたといえます。
このことで自分のまわりの「桁違い」に思いを馳せることになりました。私は20代から技術系のソフトの開発を主な仕事としてきましたが、自身のコンピュータや通信環境などの推移について思いつくままに書いてみたいと思います。ただし、内容は記憶から引き出したものが多く、時期や内容に多少の誤りはあると思われることを注意していただくようお願いします。
私が最初にコンピュータと呼べるものに接したのは田舎の高専に在学していた18歳頃です。(1973年) 機能は1990年代初頭のプログラマブル電卓並みで、店舗にある旧式の大きなキャッシュレジスターぐらいの大きさのものでした。結構こわい教授の研究室に置いてあるマシンを、恐る恐る使わせてもらう方式でした。プログラミング言語は、アセンブラほどではないがCPUのレジスタを意識したもので、かなり低レベルだった記憶があります。その後、学内にコンピュータが設置されました。「紙テープ」でFORTRANプログラムを提出して、専門の担当者に処理を依頼したのち、次の日に連続用紙での印刷出力を受け取るという方式で運営されていました。文字の打ち間違いなどで何度も提出しては返されたり、3時間ぐらい実行しても結果が出ずに文句を言われたり、実行できたのはよいが意図せずに数百ページの紙を出力して怒られたりしながら使っていた記憶があります。
社会人になった1975年には半完成品のキットが市販されていましたが、1980年頃に製品としてすぐに使える状態の「パーソナルコンピュータ」が販売されました。PC本体とCRTディスプレイを購入し、補助記憶装置としてテープレコーダーを使うというシステムで遊び始めました。半年後にフロッピーディスクドライブを購入しましたが、システム全体の購入に、その年の1年分のボーナスが消えました。CPUはモトローラの6809で今回調べたら動作周波数は1MHzでメモリは64KB(標準32KB+増設32KB)でした。これを使って、当時配属されていた現場の支持鋼材選定やプレハブ管の現合管向けの測量結果の計算処理などを行いました。
この現場が竣工した後で大阪支店の設計課に配属されましたが、仕事はPCでの技術計算プログラムの開発でした。このときに使用したPCはNECのPC-9801で周波数が5MHzでした。制限まで拡張したメモリは640KBです。
それまでの社内での技術系の計算は基幹システムのコンピュータの片隅で実行されていました。私も新入社員研修の中でPL/I言語でのプログラミングの研修を受け、「カード」でプログラムを読ませて実行しましたが、現場に出てからはコンピュータは全く縁のない存在でした。当時のPCは、基幹システムの担当者からは、「PCはホストの1000分の1の能力しかない。役には立たないおもちゃだ。」と言われていた記憶があります。
しかし、それなりに使い道はあり負荷計算プログラムや、消音・遮音等の計算プログラムなどを開発しました。熱負荷計算は支店設計部門で多く利用され数百件の利用実績ができ、その後の全店での利用につながりました。
当時販売されたmicroHASPでの年間負荷計算なども行いました。当初は1ゾーンの一年間(8760時間)の計算に2時間半を要していましたが、2010年頃のセミナーのデモでは7秒位になっていて驚いた記憶があります。
他に温度等の多点計測器の結果出力を現場でPCに取り込みデータ整理・チャンネル間演算が行えるソフトの開発も行い、クリーンルームの試運転での温度分布計測や蓄熱槽の温度計測結果整理などに使用しました。このシステムは、後に電話回線での通信機能を追加し遠隔地の計測データを自動収集できるシステムになりました。
現在は社内で配布されている手元のPCは周波数2.6GHz、メモリ16GBです。CPUも8bitが64bitになっていて、凄まじいまでの変化です。CPU能力の向上の90%はWindow管理などを含むOSの機能向上に食われてしまっているという記事を過去に読んだことがありますが、残った10%でも大変な差です。
支店の設計課に在籍していた1980年代のはじめに本社でCAD導入の検討が行われていました。これに対抗するということではなかったようですが、支店の設計課長からCADについて調査し導入可否を検討して報告するようにとの指示を受けました。当時の状況を調べ自分なりに判断した結果、当社へのCAD導入はやめたほうが良いとの結論にしました。原因は、コストと操作性です。導入費用が億単位となり、製造業など同一製品を大量製造するような、図面に費用をかけられる業界ではペイしても、1枚の図面が一つの設備を作るだけに使われる我々の業界では、元を取るのが難しいと考えました。マウスがまだ使われていな時代で、デジタイザ+ペンをポインティングデバイスとして使用するのが一般的でしたが、操作感はイマイチでスペースも必要でした。
ただ、本社で取り組んでいたCADを何度か見学させてもらっている内に、考え方が変わりました。私の検討の前提条件には「将来への視点」が欠けていたことに気づきました。この時に会社として取り組んでいたCADはコンピュータビジョン社のCaddsでした。属性を持った3Dモデルを構築し、そこから図面を生成し、モデルの属性情報を利用して数量を拾ったりするものです。(BIM?)。コンセプトは合意できるものでしたが、実行速度が遅すぎて、まともな物件は処理できませんでした。
このシステムは通常操作はワイヤフレームの画面でしたが、モデル画面のシェーディングができました。ただし1画面の処理に数時間を要していたので、夕方に実行開始して朝に確認する使い方でした。今のPCの画面は静止画ではなくマウスの動作に応じた動画がストレスなく表示できます。おそらく1秒間に30回ぐらいは画面を更新していると思われます。
この時のCADは、主に実行速度やメモリの制限などで物件を全て対象にするレベルでの利用ができず、機械室のプレハブ化など特定用途のみでの利用になりました。ただし、社内で広く使うことには至りませんでしたが、私を含めて当時のCADの延長上にある「CADのあるべき姿」に触れた社員たちが、その後の当社のCAD活用に向けた共通認識を持ったことが大きな成果だったと考えています。
ワープロソフトを使うようになったのは、30年ぐらい前ですが、その頃はPCのレスポンスが悪く、我流で大して早くない私のキーボード入力に文字の画面表示がついてこれませんでした。CPUの周波数が100MHzを超えたころ、PCのキー入力に画面表示がついてくるようになりました。表計算ソフトでの矢印キーでのセル移動ではるか彼方に行ってしまうことが多くなったのもこの頃です。
ローカルエリアネットワーク速度も、1995年頃に社内のPCやEWSをEthernetでつないだ時に計測した結果は、実効速度が40KB/sでした。今は、数十MB/s以上のデータが流れます。WANも、パソコン通信に使用していた1200bps(実効速度0.1KB/s)が1Gbps(同50MB/s)ぐらいになりました。今は500MB位のサイズのファイルでもストレスなしに扱えるようになり、CADソフトなどはGB単位のサイズでダウンロード配布される時代になりました。
回線 |
仕様速度 |
実効速度 |
用途他 |
電話 |
1200bps |
0.1KB/s |
パソコン通信 |
電話 |
14.4Kbps |
1KB/s |
インターネット接続 |
INS Net64 |
64Kbps |
20KB/s |
FD遠隔コピー |
ADSL |
1.5Mbps |
100KB/s |
現場のネット接続 |
光回線 |
1Gbps
|
50MB/s |
自宅のインターネット接続 |
・実行速度の計測は大容量ファイルのダウンロード時
・数値はおよその目安(通信状況、サーバー性能などで大きく変動)
1995年頃、建築学会のデータ交換の仕様検討に参加していたことがありました。ISOの国際会議から3か月程度経過した後に、参加した大学の先生から英文の紙のコピーを100枚以上渡されて、議論をする方式で進められていました。
同じ頃に、回線はFAXと切替でしたがインターネットが使えるようになり14.4Kbpsで接続していました。これでヨーロッパなどのデータ交換関連の技術資料を漁ることができるようになりました。自分では、過去の情報を集めた仮想の図書館にアクセスしている気分でしたが、ある日、ダウンロードしていたファイルのタイムスタンプを確認した際に、時差を考えると30分前ぐらいにアップした文書であることが分かり、愕然とした記憶があります。情報入手の時間間隔が変わるのが実感できました。今から考えれば当たり前ですが、情報は現地で紙でもらって、持って帰ったものをコピーするという固定観念が崩れ去りました。いまは、離れた複数の場所でリアルタイムに顔を見ながら情報交換ができる時代になりました。
もっと最近までのことを書くつもりで始めましたが、寄る年波には勝てず息切れでここまでにさせていただきます。話題が20世紀ばかりになりましたが、21世紀も20年以上を経過していますので、それなりに個人的な事件はありました。またの機会(?)にさせてください。
冒頭の気象予測は大変な進歩を遂げ、今や個人のスマートフォンで雨雲を確認でき自分のいる場所の数時間後の天候が見えるようになりました。電話も場所をつないでいた固定電話が、人をつなぐ携帯電話になり、それを所持していることを前提にできる社会に大きく変貌しました。
しかし、熱気流やエネルギーシミュレーションの利用拡大などを除けば、私が携わってきた技術系の計算は、私が新入社員研修で教わった計算方法から変わらない方法で行われています。
コンピュータや通信のけた違いの変化はありましたが、我々ができていることは「桁」が変わっている気がしません。
※用語について
古い話が多いので知らない用語が多々あると思いますが、PCやスマートフォンで「XXXXとは」と入れると私が説明するより詳しく教えてくれる時代になりましたので、用語などは特に説明なしに使いました。