コラム「CADで図面屋さんをしている遅々助」

2022/07/31
非営利活動法人 設備システム研究会
遅々助


CADで図面屋さんをしている遅々助です。

埼玉県東部で稲作と酪農を主体にした農家の生まれで、4人姉兄弟の次男坊として、自由気ままに生きてきましたが、先日の5月30日で54才になりました。私が生きて来た54年という時間の流れを自分自身で振り返る記録をこの機会にコラムとして残したいと思います。何も成せていない、偉人でも何でも無い一般人の話なので、参考に成らないかも知れない話しですが、もし御興味が有れば御一読ください。

人生の前半、約20年を過ごした生家で有る実家は、私が4〜5歳の頃に建替えるまで…茅葺屋根の平屋建てでしたが、昔は住込みの使用人もいた事も有るくらいの家で、元々曾祖父の代まで家畜商の元締めをしていた様です。農業の機械化に伴い私の父の代から稲作と乳牛を飼育する酪農を始めました。私の母は長男の嫁として嫁いだばかりの頃から、父の祖母と両親、姉や弟達それに加えて自分達家族と十数人分の食事や家畜の世話などで忙しい毎日だった様です。両親とも当時20代でしたが、子供4人を抱えて10年程で、50頭を超える乳牛を飼育する規模の牧場となっていました。

家族の中でも姉兄弟の中間子である私は、常に自由人でした。上の姉兄を追いかけるようにして育ちましたが、何事にも束縛される事無く物心が着いた頃からとにかく変わった落書きが大好きで、姉兄と家中の壁や家具に「棒人間と矢印」と言う不思議な落書きをして遊んで居たのをよく覚えています。家中を迷路のように見立てた大規模な落書きだったはずですが、落書きをしても両親から怒られた記憶が無いです。両親の仕事が忙しく子供達を放置していたのか…或いは私が旨く逃げていただけかもしれません。小学校入学前までは、私の面倒を祖母が見る事が多く、姉兄弟で私だけ夜は、祖父母の部屋で祖母と寝ていました。当時、町議をしていた祖父の周りには、毎日のように多くの知らない大人達が出入りしていました。幼い私には意味不明な会話でしたが祖母の隣で会話を聞いていたり、実家の建て替え工事現場で作業をする職人を眺めたり…と姉兄弟や大人達の行動を観察して過す事が多く、たぶん人間観察が楽しいと感じていた子供でした。

小学校に入学すると家の手伝いとして、父親からの指示で毎朝子牛の世話をしてから登校して、学校から帰宅して夕方は、親牛への餌やりするなど…私たち男兄弟が日課として家業に参加していました。特に夕方の餌やりの時間は、ちょうど夕方のTVアニメの時間だったので、父親の目を盗んで兄と度々手伝いをサボって酷く叱られた記憶があります。因みに両親ともに農業学校卒の影響か宿題や勉強をサボっても叱られた記憶は有りません。たぶん子供の学力には興味が薄かったのでしょう。その頃の実家は、乳牛からし取れた牛乳を近隣の小中学校で給食として提供していたので、学校行事の「写生会」で全校生徒を学年ごとに実家に受け入れるなどもしていましたので、毎年学校で注目されて恥かしさと誇らしさを感じていました。

中学校時代は、親戚の誘いで知合いの学習塾に通っていました。その影響で中学の3年間は、数学と理科が得意科目でした。残念ながら当時の私には、漫画以外の読書欲が皆無で…特に何故か漢字を覚えることが出来ない私は、国語や社会などの文系教科で成績が上がらない苦しみを感じ続ける日々でした。因みに漢字に関しては、当時から「漢字の呪縛」に悩まされていて、文字として認識し読める簡単な漢字でも実際に書こうとすると形が直ぐに表現できない。一つの漢字を書き写すだけでも人より時間が掛かり漢字を記憶出来ない。当時から障害と言っても過言でないレベルで、誰にも言えず…長く私を苦しめています。(最近になって「学習障害」の一種に似た症状が有ると知り気持ちが少し楽になりました。)…兄の影響を強く受け、漫画アニメやガンプラにハマるいわいる「オタク」でした。未だ世間が「オタク」に理解が無い時代でもあり、学校では友達にその事を秘密にしていました。父親がPTAで役員となり熱心に学校行事へ参加し始めたのもこの頃からで、子供の教育に何処まで興味が有ったか疑問ですが…一般的な父親がPTAなどで学校行事に顔を出すことは、当然珍しく…学校内で父親がかなり目立つので、私は出来る限り目立つ事の無いように静かに過ごしていました。そんな一般人を装う隠れオタクでも…将来は、「マンガ家か美術教師に成れたらいいかな〜」とか考えていました。漠然とした知識で美術教師でも、教員資格の取得には大学に行く必要が有ると認識していましたが…国語や英語などの文系教科には、「漢字の呪縛」の影響で、私の中では足枷でしたので、周りの意見を無視して数学と理科の2教科だけで高校受験に挑む事を決意しました。

高校は、決して進学校では無いが…当時偏差値60程度の地元の県立高校に合格しました。地元の高校なので私の認識外で、親の口利きが有ったかも知れないと言う疑念を抱えたまま入学しました。その直後、高校の数学で挫折しました。中学校までのゴマカシが全く効かない高校の授業に戸惑い、学業の必要性を見失い、成績も上がらず、高校の3年間は、目的が定まらない暗い時期で…自分の将来として進路を考えた時に具体的な理想を言葉にできず悩みました。絵を描く事に多少興味が有り美術芸術系の進学も意識し始めた時、「図面(絵)を描く職業」の存在を知り興味を持ちました。中でも「建築家」という職業には、とても興味を深く感じました。「発想力」「技術力」「表現力」が必要で、なによりも数ある職業の中でも「〜家」と言う響きに強い憧れを感じました。普通科の高校では、先ず進路の選択肢を「文系と理系」で行います。…美術系の建築学科は「文系」でしたが、私の筆記の苦手意識「漢字の呪縛」によるコンプレックスから、2年生の選択で「理系」を選びました。当たりまえですが「漢字の呪縛」から解放される事は無く…結果的に大変後悔しましたが、理系の大学から建築学科を目指しまし、1年間の浪人を経験しました。

大学受験の浪人時代は、モチベーションとの戦いでした。大量の雑念に潰されそうな時に、建築デザイン学科の有る専門学校の存在を知り大学受験からは、解放されました。当時、学科試験無しで卒業後に2級建築士の受験資格が得られる学校は、稀で正に「目から鱗」とは、この時の事でしょう。専門学校の2年間は、充実した有意義な時間でした。当時、世の中に出始めだったCADにもここで出会い、「建築」が文化や芸術と並ぶ学問で、技術に裏付く物だと学ぶ事も出来ました。卒業後、何度か資格試験に挑みましたが…依然「漢字の呪縛」から解放された訳では有りませんでした。

私の人生最初の就職先は、東京芸大卒で国立京都国際会館の3期工事を担当した経歴を持つ建築家先生の個人事務所でした。所員が10人もいない小さな設計事務所でしたが、皇室御用達の靴屋さんの社長宅を担当したり、社員旅行で海外への建築視察に行ったりなど、約8年間の在籍で図面が「手紙」だと教わって実感し理解しました。ココでも「漢字の呪縛」の影響で「メモ」を取ることが出来なかったので、とても苦しみましたがパソコンの普及も有って何とか救われました。一般的な二十代では、あまり経験出来ない貴重な体験ができた職場だったと感じています。バブル崩壊で経営を縮小する機会に会社都合の唐突な退社でしたし、結婚して長男が産まれたばかりで、生活して行けるか不安しか有りませんでした。

次に就職したのは、職安の求人案内で見つけたCADで建築と機械の設計をする会社でした。家族経営の有限会社でしたが、大手企業へ出向も出している会社で、私自身も三菱系の企業内でCADの機械図面を手掛けていました。図面の描き方を一から見直す衝撃的で貴重な経験でした。建築を学び、建築図面を描いた経験が生きたと共に機械製図と言う違う側面で図面の表現を見直し、実感し体感する事が出来ました。先輩社員の「木は硬くて、鉄は柔らかい」と言う言葉がとても印象的でした。建築図面では、数100メートルを「ミリ」で表現しますが…機械図面では、100分の1ミリを表現しながら「公差」で誤差を許容して表現します。様々な図面の表現と多様性を実際に体感する事が出来ました。私自身の母が他界して、自分自身を見直すために敢えて退社しましたが、今でも関係した方々に感謝しています。

2度の転職を経験し、家族の安心と家計の安定を求めて、人生で初めて自分の意志で父親のコネを利用し大手企業で土木事業コンサルの会社に就職しました。あまりにも軽率に自分が培って来たスキルをリセットして…今思えば「愚策」としか言え無く、深い後悔の気持ちでいっぱいです。しかし、貴重な経験をした事に代わり有りません。本当に24時間働きました。終わりの見えない作業は、終電が過ぎても終わらず…会社の車で寝る為だけの帰宅、そしてまた作業…本当に夢中で働いて、人間の表と裏を体験しました。転職時の思いとは真逆で、家族には不安や負担をかけてしまいました。初めて精神的な限界を感じて止む無く退職しましたが…その判断は、今も間違いでは、無かったと感じています。

そして、前職を退社して、すぐに現在の会社に就職しました。在籍して既に13年が経過しおります。現在の会社も入社当初は、現場へ出向する等…厳しい状況の時期も有りました。決して高収入とはとても言えない給料です。しかし、本社勤務になってからは、自宅からも近く…通勤時間は、なんと15分です。仮に2時間残業しても20時には家にたどり着く事が出来る通勤環境です。前職では、考えられない夢のような環境です。会社への不満も有りますが…業務の内容的には、少しですが充実感を感じています。

子供達2人も高校・大学そして就職と経て、無事独立して気持ちにも余裕が持てています。 息子は、中学校で数学教師として働き、今年で3年目です。不思議な共通点を感じるかも知れませんが…私が学習や進路を強要した事は決して有りません。私の行動から何かを感じたのかどうかも分かりません。何故か自然の流れでそうなりました。娘は、昨年から保育士として働き出しました。本人達に直接伝える事は、無いですが…父親として応援しています。2人とも家を出てしまったので、家の中が寂しく感じる日々を過ごしています。娘は、たまに帰ってきますが…実家を物置と勘違いしているようです。 奥さんの機嫌が悪い日は、子供達の助けがないので大変ですが、適当に頑張っています。

今後は、後身の育成と家族との時間を大切にして行きたいと言う想いです。皆が楽しいと思える事を考えて生きて行きたいです。