コラム「私の若かりし頃の趣味と仲間たち」

コラム「私の若かりし頃の趣味と仲間たち」

2022/04/30
非営利活動法人 設備システム研究会
T.Y


私の趣味は、先日寄稿された“ショウ”さんと同じで、昨年9月号で掲載頂いた内容を拝見しビックリしました。同じ車の趣味で、同じ時期に、同じ車種の日産FAIRLADYVersionT-5M-AT?を購入され、沖縄以外46都道府県を走破されていたコラムを拝見し、19年間私と同じ車を大事に使われている同輩が、身近な設備システム研究会:事務局に居らしたことに驚きでした。今回は私の愛車「Z」写真を紹介します。
車庫に大事に保管で比較的走行距離が少ないので程度は結構良く19年の古さは感じないと思います。最近のデザインと遜色なくスポーツカーが800万以上する昨今で当時420万で購入出来た優れモノです。
 
私は、ショウさんと違って、余り精力的に乗ってはいない状況で、走破距離は44,000Kmで、愛車は現在マンションの車庫に眠っています。購入の動機は社会人になってから新車を購入したことがなかったので、50才頃に自分へのご褒美?として、当時スポーツカーとしては安い車に飛びつき購入した次第です。
Z」はエンジン3500CC-V6280PS、車両重量1.440Kgですので、加速スピードは凄く、オートバイに乗っている様な感覚で、アクセルを踏み過ぎると凄まじく加速しますので、最初に乗るときは要注意です、また、ハンドリングがシャープ過ぎるので高速道路運転などでは少し慣れが必要です。
設備システム研究会の皆様には、三木会長元会社の須賀工業:軽井沢保養施設でのシス研CAD合宿に出かけたり、斎久工業:湯河原保養所で度々行われた合宿に出かけたり、設備システム研究会の一部の方々には合宿に出向く際に運転していただいた記憶があります。
現在は若かりし頃の熱い思いは、年と共に減少してきましたので、最近はエコカーの三菱自動車アウトランダPHEVエコカーをメインに乗っています。この車はバッテリー電動とエンジン併用で動く車で、自宅の200V電源を車庫まで延長したコンセントに、夜間割引PM11時〜AM7時にセットしたタイマーからバッテリーに充電して使っています。バッテリーが減るとエンジンでも走行できる車ですので、長距離にドライブしても安心です。毎晩車庫で充電した電気で十分近場は走行できますので、高くなったガソリンは2~3ヶ月に1回給油するだけで済みますので、省エネ経済的で、最近は大人しく専らアウトランダに乗っています。FAIRLADY「Z」は休眠状態ですので、好きな方にお譲りしようかと思っています。
「私の若かりし頃の趣味」は、「Z」を購入した動機と同じで、車が大好きで高校時代に自動車部に入った時からでした。当時の自動車部では自動車整備の他、ゴーカートをフレームから製作し、ラビットスクーターのエンジを取外しゴーカートに移植して動かし、大学の付属高校でしたので、本校の湘南校舎に持ち込み走りまわっていました。その後大学時代には、休みの度にアルバイトを行い、自分で車を購入して仲間とラリークラブを作って毎週末に、代々木の喫茶店でミーティングを行いラリー開催する楽しい学生時代を過ごしました。当時のラリークラブは「RACS(ランブリングエンジェルスクラブ・スポーツ) JAF 加盟のモータースポーツクラブでした。RACSは最初「RAC」で考えましたが、イギリスのロイヤル・オートモビル・クラブの略称が有ったので、+Sを付けてクラブ名としました。
「当時のスポーツ紙には次の様な紹介がされているクラブでした。」
ランブリングエンジェルスクラブ・スポーツ(略称 RAC.S)は、 JAF 加盟のモータースポーツクラブです。現会長の守屋教昭を始め、ラリー競技、ダートトライアル競技への参加者が主なメンバーです。
クラブとしての歴史は古く、初代メンバーである篠塚建次郎氏らが、当時三菱ファクトリーチームのラリーストであった、初代会長の故・山崎英一氏の門をたたいたことがクラブ創立のきっかけです。その後40年以上にわたり、競技へのエントリーをメインとして活動を続け、現在にいたっています。
RACS発足後、36年経過し、メンバーが社会人後半になったときに、帝国ホテルで懐かしき皆さんと会合を行った時の写真です。】
テーブルで並んで座っている私の右隣の白いシャツの人が「篠塚健次郎」氏です。彼とは高校時代の自動車部の時からの友人で、当時一緒にラリーを行うために、大学の休みは二人で運送屋や印刷会社の運転手のアルバイトを行い、ガソリンを貯めてラリーを行っていました。休日や仕事外でガソリンを多く給油しすぎるので、ある日二人が印刷会社の女性社長に呼び出され、得々と叱られた思い出があります。
RACSラリークラブの発足には、高校時代の自動車部からの同級生の仲間で、三菱自動車パジェロで有名な「篠塚健次郎氏:シノケン」他、現在もラリーを趣味で続けている仲間たちがいます。
【健次郎氏のプロフィールを彼のオフィシャルサイトから引用させて頂きますと下記経歴です。】
※篠塚建次郎(しのづか けんじろう、19481120日生)ラリードライバー、東京都大田区出身、学生時代からラリーを始め、東海大学工学部工業化学科を卒業後、三菱自動車に入社。三菱自動車の社員ドライバーとして国内ラリーを総なめにした後、1974年より海外ラリーに進出。国際舞台での活躍が期待されていたが、1977年の排ガス規制により以後8年間ドライバー稼業はブランクとなりサラリーマンに徹する。1986年パリ〜ダカールラリー出場、38歳で復活。1987年総合3位、1988年総合2位、1997年総合優勝。同時に1991年、1992年にWRCアイボリーコーストラリーでも2年連続優勝して人気実力と日本のラリーの代名詞となる。世界ラリー選手権(WRC)とパリ・ダカール・ラリーで日本人の優勝者である。篠塚建次郎オフィシャルサイト:http://www.shinoken.net/
現在は経験を生かし、安全運転・省エネ運転・高齢者の安全運転等の講習会や講演等を勢力的に日本各地で展開。数年前より清里を拠点にスポーツドラインビングのためのスクールを開催。2002年にセネガルヨッフ市にマム アラッサン ライ ド ヨッフ小学校を設立。2008年からソーラーカーレースに参入。『生涯現役』を目標にクロスカントリーラリーとクラシックカーラリーへの出場も続行中。また、私と同じ母校「東海大学」ソーラカーイベントにも出場。
現在は大人色のペンション「〜La Verdura Logo ら・べるでゅーら」は篠塚建次郎ファミリーがもてなす癒しのペンションを経営する奥方(三浦友和氏のお姉さん)の清里に在住しています。
当時のラリーの仲間にRAC・S創設時から大学まで同輩で、古希を過ぎて活躍している仲間がいますので紹介させて頂きます。
【砂原郎氏のプロフィールを彼のオフィシャルサイトから引用させて頂きますと下記経歴です。】
1948年5月28日 東京都生まれ。1969年、東海大学在学中から、取材/編集作業に関わっていた「日刊自動車新聞」就職、自動車週刊誌「週刊ザ・モーター」、日刊自動車新聞社初の海外特派記者を経て出版関連に勤務。その後「Lui Japanスコラ」創刊から編集局次長。この間、大学生時代から、モータースポーツに参戦。篠塚健次郎とともに三菱ラリーチームで国内ラリーを戦う。1982年からは、富士重工スバルチームと契約。世界ラリー選手権WRC東アフリカ・サファリラリーに挑戦。1983年サファリラリーでは、日本人初のクラス優勝(総合5位入賞)。現役引退後、フリーランスジャーナリストとして、自動車専門誌等に執筆。1988年10月に(株)デューン・コミュニケーションズを創立。モータースポーツ参戦時代から、VW/AUDIの日本国内向けPR業務委託を、副業としていたことから、AUDIモータースポーツのスタッフが大挙「トヨタチームヨーロッパ:TTEに移籍したのを機に、オベ・アンダーソンの誘いからTTEのラリー活動PRに従事。TTEのPR活動を通じてトヨタ自動車との関係が深まり、報道試乗会等の企画運営を行う。また、TTEラリー活動PRから「ル・マン24時間レース」PR等、一貫してトヨタのモータースポーツ活動PRを担当。トヨタの「F1」では、参戦2年前から企画、PR対応に従事。現在に至る。
ラリー仲間「砂原氏」が古希で「トランスアジア・クラシック2018」で出場しましたので紹介します。
シルクロードの古代都市を辿る【クラシック・ボルボで行くオランダから北京の旅 TAC2018】に参加。何とクラッシクのボルボ122Sアマゾンで、アクシデントを乗り越えながら、オランダから北京にゴールする2万5000kmラリーで走り切ったのでビックリです。ラリー後の顛末では、完走後中々帰国しないので確認した処、パスポート期限が走行中に切れていて、北京を出国できず官憲に拉致されていました。
【オランダ⇒北京の旅 TAC2018】
【ルマン24時間トヨタチーム優勝】砂原氏同行取材
日本ラリー界の誇れるイベント【レジェンド・オブ・ザ・ラリー】にも参加
 
もう一人の未だ現役のRAC・S時代からの仲間の活躍をご紹介します。【19年ぶり国産自動車メーカー誕生!還暦を迎えてからの苦労と挑戦を成功に導いた2つのひらめき 日本エレクトライク代表 松波登】
国土交通省から認定を受け、19年ぶりに国産車メーカーが誕生したことを、ご存知だろうか。オート三輪と聞くと、懐かしさを感じられる方も多いのではないだろうか。イメージしにくい方は、映画「ALWAYS三丁目の夕日」や「となりのトトロ」などにも出る、戦後日本の高度成長期を支えてきたクルマを思い浮かべてみていただきたい。東海大学と産学連携で開発を進めてきた日本エレクトライクの電気三輪自動車「エレクトライク」に対し、2015年6月8日、国土交通省は自動車の量産のための型式認定を認める決定を出した。これにより、日本エレクトライクは、晴れて新たな自動車会社として出発することになった。日本レクトライクの松波登氏は、初年度の生産を100台、2016年度には200台の生産を目指すという。
松波登(まつなみのぼる) 1948年生まれ。(株)日本エレクトライク代表。東海大学工学部卒業後、トヨタ自動車のワークスドライバーとして活躍し、モンテカルロラリーにも出場する。その後父親の会社を引き継ぎながらも、車への思いが忘れられず、還暦を迎える2008年に日本エレクトライクを創立。電気三輪自動車に初めてアクティブホイールコントローラーを搭載したエレクトライクを誕生させる。
私の若かりし頃の趣味と仲間たち】。
私の趣味は、若いころは車でしたが、50代は毎週末テニスを行っていましたが、最近は運動は減り、60代は旅行が趣味になり国内・海外・クルーズなどに出かけています。古希を迎え、コロナが一向に収束しない中、テレワーク在宅勤務・自宅で過ごすことが多い状況で運動不足で知力・体力が日々衰えを感じるこの頃ですが、私は大学卒業後「車」関係へは進まず、建築関連:設備会社に勤め、積算のコンピュータ化開発以降、CAD部門、基幹システムのWeb化開発に従事し、定年後は在職時代に関連していた、BIMの国内標準化活動に従事しています。今回は、私の学生時代の「若かりし頃の趣味のお話と、当時の仲間たちが車に関係した活躍をしている内容を紹介させて頂きました。